凹み中
ずっーと続けていたダイエット(シャングリラダイエット)を
なぜか知らないけど、
継続していたのに一カ月も行っていないのに気づいてしまった。
今日、
久しぶりにWiiに乗ってびっくり、
一か月前まで15kg近くまでダイエットに成功していたのに、
すごく凹んでしまいました。
恐怖のリバウンドです。
7kgも戻っていました。
今日からまた、
新たな気持ちでシャングリラダイエットを開始します。
7月が終わるまでにはリバウンドした分を取り戻してやる。
新たに決意を心の中で決めてしまいました。
続ければいいんだけど(悪い心の叫び)
とにかくするぞ。
なぜか知らないけど、
継続していたのに一カ月も行っていないのに気づいてしまった。
今日、
久しぶりにWiiに乗ってびっくり、
一か月前まで15kg近くまでダイエットに成功していたのに、
すごく凹んでしまいました。
恐怖のリバウンドです。
7kgも戻っていました。
今日からまた、
新たな気持ちでシャングリラダイエットを開始します。
7月が終わるまでにはリバウンドした分を取り戻してやる。
新たに決意を心の中で決めてしまいました。
続ければいいんだけど(悪い心の叫び)
とにかくするぞ。
日本一長い踏切、閉鎖 拝島駅
昨日、
東京都昭島市の拝島駅南東にある、日本一長いとされる「市道北143号踏切」が、31日の終電を最後に廃止された。全長約130メートルの“長尺”は、鉄道ファンの間では有名だった。当日はあいにくの大雨にもかかわらず、地元住民や鉄道ファンが押しかけ、昭和の名残を残す名所に別れを告げた。
この踏切は西武拝島線、米軍横田基地の引き込み線、JR八高線、青梅線と計11本もの線路をまたぐ。距離は長いが、幅は約2・5メートルと歩行者と自転車しか使用できない。渡り終えるのに、大人の足でも2分近くかかる。
北側の西武線側から足を踏み入れると、右手に線路が拝島駅方面に扇状に伸びる絶景が見える。踏切を渡り、倉庫や保線車両が留置されている通称「中州」に到着。さらに青梅線の踏切を渡ると、駅前の商店街につながる道に出る。

この市道を管理する昭島市都市整備部によると、一番古い記録では、昭和6年の地図に踏切が載っている。線路で南北に分断されていた地域の住民にとって、踏切は長い間、南北を結ぶ重要な抜け道だった。
しかし、遮断機と遮断機の間が長く、危険な場所でもあった。昭和後期には踏切事故で3人が死亡。現在も週3回は運転士が危険を察知して警笛を鳴らす。このため、市側は駅の自由通路の完成に合わせ、廃止を決めた。
31日には、煙るような雨が降るなか、家族連れや鉄道ファンらがそれぞれの思いを胸に封鎖される踏切を一目見ようと集まっていた。混雑を予期したJRが特別に配置した職員が「電車が来ますので離れて下さい」と大声で叫んでいた。
近くのアパートでは階段を駆け上り、踏切を見下ろすように写真を撮る鉄道ファンの姿も。中州では、昭島市の50代の介護士の女性が踏切への思いをフォークソングにして歌っていた。
「途中でカンカン鳴り初めて焦るなど危険なこともあったけれど、日々の生活の一部だったから、愛着がある。もう通れないと思うとさみしい」と同市の主婦(48)。中州で熱心にシャッターを切っていた小平市の工学院大学付属高校1年、藤野悠生さん(16)は「中学時代は毎日この踏切を通って学校に通った。中州には珍しい特急車両や解体される前の車両があって、来るたびにわくわくした」と悲しげだった。
商店街側の踏切では、瑞穂町の幼稚園児、竹原悠人くん(5)が通り過ぎる電車に手を振っていた。「週に1度、電車を見に通っていた。手を振ったら、車内から手を振り返してくれるのが楽しかった」
住民に愛され続けた踏切も、1日深夜零時時56分の終電を最後に封鎖。80年以上の歴史に幕を閉じた。
踏切さん、本当にごくろうさまでした。
東京都昭島市の拝島駅南東にある、日本一長いとされる「市道北143号踏切」が、31日の終電を最後に廃止された。全長約130メートルの“長尺”は、鉄道ファンの間では有名だった。当日はあいにくの大雨にもかかわらず、地元住民や鉄道ファンが押しかけ、昭和の名残を残す名所に別れを告げた。
この踏切は西武拝島線、米軍横田基地の引き込み線、JR八高線、青梅線と計11本もの線路をまたぐ。距離は長いが、幅は約2・5メートルと歩行者と自転車しか使用できない。渡り終えるのに、大人の足でも2分近くかかる。
北側の西武線側から足を踏み入れると、右手に線路が拝島駅方面に扇状に伸びる絶景が見える。踏切を渡り、倉庫や保線車両が留置されている通称「中州」に到着。さらに青梅線の踏切を渡ると、駅前の商店街につながる道に出る。

この市道を管理する昭島市都市整備部によると、一番古い記録では、昭和6年の地図に踏切が載っている。線路で南北に分断されていた地域の住民にとって、踏切は長い間、南北を結ぶ重要な抜け道だった。
しかし、遮断機と遮断機の間が長く、危険な場所でもあった。昭和後期には踏切事故で3人が死亡。現在も週3回は運転士が危険を察知して警笛を鳴らす。このため、市側は駅の自由通路の完成に合わせ、廃止を決めた。
31日には、煙るような雨が降るなか、家族連れや鉄道ファンらがそれぞれの思いを胸に封鎖される踏切を一目見ようと集まっていた。混雑を予期したJRが特別に配置した職員が「電車が来ますので離れて下さい」と大声で叫んでいた。
近くのアパートでは階段を駆け上り、踏切を見下ろすように写真を撮る鉄道ファンの姿も。中州では、昭島市の50代の介護士の女性が踏切への思いをフォークソングにして歌っていた。
「途中でカンカン鳴り初めて焦るなど危険なこともあったけれど、日々の生活の一部だったから、愛着がある。もう通れないと思うとさみしい」と同市の主婦(48)。中州で熱心にシャッターを切っていた小平市の工学院大学付属高校1年、藤野悠生さん(16)は「中学時代は毎日この踏切を通って学校に通った。中州には珍しい特急車両や解体される前の車両があって、来るたびにわくわくした」と悲しげだった。
商店街側の踏切では、瑞穂町の幼稚園児、竹原悠人くん(5)が通り過ぎる電車に手を振っていた。「週に1度、電車を見に通っていた。手を振ったら、車内から手を振り返してくれるのが楽しかった」
住民に愛され続けた踏切も、1日深夜零時時56分の終電を最後に封鎖。80年以上の歴史に幕を閉じた。
踏切さん、本当にごくろうさまでした。




